2017年08月13日

人形劇「マチルダ」観劇後、あれこれ思うこと。*

昨日まとめた<マチルダ>観劇の記事を読み直し
また誤字脱字、変なところを直しました。
今一度自分なりに考えをまとめて
書き残しておくことが必要だなと思いました。
なので、ここにまとめておきます。

プーク人形劇場*海外特別公演「マチルダ」を鑑賞してきました。*

***

◆想像力の幻想と動き

劇人形が劇人形としての役割を
正しく果たすためには、
その道具としての人形の効果を理解し、
操作することが大事です。
演者の腕は2本しかなく、人形のフォルムだけで
表現できることにはかなり限りがありますが、
そこで重要なのは<想像力>です。

観客の想像力を引き出すための、
無駄のない動き(論理的な動き)が
何より一番大事なのですが、
その想像力…ないものをあるように見せ、
見立て、一歩進んだ理解を促す、その幻想…を
保ち続けさせるためにも大切でした。

ボディランゲージは言葉よりも強く印象的で、
想像力がすべての劇中では、パペットの動きを通して
演者の心や考えまでもが、
観客にあらわになることがあるのです。
迷いや恐れ、恥じらいなどなどです。
そのために常に動かし方や演出方法=テクニックは、
レシピ化して頭や体に叩き込んでおくことが必要でした。
レシピ化することは再現を可能にする、ということです。

同じ公演になることが二度とないのが、
劇の性質のひとつではありますが、
パペットシアターではどうもそれは
一部違うような気がしました。
人形の動きがセリフ以上に重要な役割を果たすこの劇では
動きはすべてロジカルなもので、計算し尽くされているからです。
そうでなければ観客はしっちゃかめっちゃかな動きから
話に必要な本当の動きだけを注視し抜きださなくてはならず、
話に没入できないことにより、幻想から覚めてしまうからです。

***

◆動きのリズムと場面のアニメーション

本当に伝えたいこと、どう見せたいか、
どう効果を引き出したいかのために練られるのは、
正しく整理化された論理的な動き以外に、
<間>や<リズム>が必要でした。
「人形は楽器のようなもので、劇はオーケストラである」
ネヴィルさんはおっしゃっていましたが、
動きの緩急、動きから動きへ移るタイミングや速さにより
その動きの持つ意味や効果に大きく違いが出ます。

まずはじめに人形と演者が瞳を交わし、
この二人によって物語が語られることを知らしめます。
お決まりを見せることで、安心させて没入へ促すのです。
人形は観客を見据え、瞳に注視させることで幻想へ誘い、
瞳の固定点を決めることでブレのない
画面構成を作ることができ、余計な混乱を防ぎます。
見せたい・もたらしたい演出はどのようなタイミングで
挟んでもよく、手段はいくらでもあります。
動きの始まりと終わりは必ず静止し、
どこまで注視すればよいのかを知らせるのです。

このようなねらいはアニメーションの画面構成と
よく似ているような気がしています。
人形自身の心身的な状態を表現するのに、
だるい時は体を低く持ち、
遅くのっしりした動きにするなど
重みやスピードを意識した動かし方をします。
また、その心身状態を表現するのに
特別な道具を必要とすることはあまりなく、
動かし方・位置の高低・息遣いなどさえあれば
最低でも伝えられるような気がしました。
もちろんテクニックありきであり、
そのテクニックも簡単なものではありません。

***

◆「人形は霊的なもの」「点の存在である人形」

上記の数々のテクニックやお決まりによって、
人形は道具として効果的に力を発揮しますが、
それらはテクニックを信じる=動きを信じる
=人形を信じることによってもたらされる効果です。
テクニックが上手に発揮された時、
人形と演者は何も考えなくても
自然に語らうことができます。

ネヴィルさんは「人形はとても霊的なもの」
表現していましたが、それは私にも時々
製作途中で感じられることでした。
自然と、その人形がそうしたいようにそうすると
感じられることが私にもままあります。

それは人形、特に劇人形は
純粋な存在で、空っぽなものです。
誰もがそこに入り込むことができ、
宿ることができる道具だからです。
一緒に感じ、思い、考えることができます。

そしてその人形ならばどうするか?
そのパーソナリティはこの世界をどう理解しているか?
人形自身の視点を通した世界を演じ分けることで、
時には人形が意思をもってそうしたように
思えるほど自然に、世界を広めていくことができます。

ただそのような存在であるように、
演者と人形は常に距離を保たねばなりません。
感情移入しすぎることで、演者はステージを
コントロールできなくなるからです。
常に傍観し、効果的な動きを計算しなければ
幻想を保ち続けるのが難しいからです。
このバランスはとても難しいように思います。


正しくその道具としての性質を保ち続けた時、
人形は人間にはできない演技をすることができます。
「点の存在である人形」は、過去がありません。
人間のように軌跡・歴史といった線の時系列を持たないため
「初めて自分の手を発見し驚く」といった
おかしみのある不思議な演技をすることができます。

劇中で静止し、2時間も3時間もそのままでいて
幾時間かの休憩をはさんでまた続きから…
といったことができるのも人形だけです。
アニメの一コマを一時停止するように、
その雰囲気や幻想を保ったままそこに存在し続けられるのは
過去や未来を持たない、今だけを生きる
不思議な存在ならではなんですね。

***

ネヴィルさんの劇中で、人間が出てくるのも印象的で
なぜなのか不思議に思い、質問をしたのですが
それは人間という存在を人形の対比として
登場演出させることで、人形の強烈な個性を
引き立たせたかったということでした。

人形が人間に問いかけるシーンがあったのですが
それに人間は答えませんでした。
それは人形に不安を感じさせる効果を引き出します。
演者の掛け合いに反応があることは、
演者との間で人形は生きていることの表れである…
とのことでした。

人間と人形がまるで
同じ次元で生きているようにみせる幻想は、
人形との間に一線を引く・身を引く心がけによって
その危ういバランスは保たれているんですね。

***

あまりに学ぶことが多くて、
これでまとめきれたかどうかもわかりません。
上記は主にテクニックや道具としての人形を
効果的に扱うこと、主に演技に関することでしたが
創作人形も「点の存在」であり、
そこに違いはないように思います。

点の存在であるドールたちを、
どのように傍に置いてもらいたいのか?を考えると、
表情の付け方やそのフォルム(特に可動域)は
もっと固定的でいいとか、大げさでいいとか
そういう部分が出てきます。
もし動かして遊んで写真を撮って…
画面を構成して遊んでほしいようなら、
表情はもっと影によって複雑に見えるようにしていいし
動きももっと可動域を広くしてもいいはずです。
インテリアとして美しくというのなら、
もっとわかりやすくアイコン的で、
表情も大げさでうんとかわいくていいのでしょう。

そこにはとてもとても用途としての違いの差があって、
自分はどちらを向いていたいのか?と考えています。
違いをはっきり感じたうえで、
曖昧に、どっちかになるようになるでしょ…とは
ならなくなってきました。
私はいいとこ取りをできたらいいな~
と思っているのですが、甘いかなあ。


そういうわけで、今日はここまで。
うめだどうぶつえんがそろそろ始まります。
チャイム制作にもまた着手したい気持ちです。

それではまた!
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